八幡崎館(須賀川市八幡山)
天正17年(1589)の伊達政宗による須賀川城二階堂氏攻撃で大激戦を演じた城である。
この館は須賀川城の西口、大黒石口を守る出城であり、この方面には塩田右近大夫政繁を主将に、政繁の嫡男塩田光繁、須田源蔵、矢田野右近秀行、遠藤壱岐守、大波新四郎、らが守備していたという。

この方面は長沼城主、新国貞通の手勢が攻撃したが撃退されたという。
八幡崎館で戦っていた若武者大波新四郎と遠藤壱岐守は獅子奮迅の働きで、これを見た伊達政宗は「希世ノ逸物」と二人の武勇を賞め家臣に命じて生け捕らせたという話が残っており、伊達政宗の前に引き立てられた二人は伊達家への仕官を勧められたが、大波新四郎は伊達政宗の言に従わず悠々と立ち去り、遠藤壱岐守だけが伊達政宗の意に感じ臣従したという。
須賀川城自体は内応者の放火で落城してしまったが、この八幡崎館は須賀川城が落ちた後も戦いを続け、最後の一人まで戦い、ついに玉砕したという。
この様子は「伊達家治家記録」にも「本城落居して後までその役所を守り戦死する事、実に希代の事なりと人皆嘆美す」と記述されている。
こんな城であるので果たしてどんな城かと思ったが、意外や意外、こんな城でよく戦えたなと思うような古風な城であった。
城は須賀川城から西1km、東北本線、国道4号線西の岩崎地区の八幡山にある。
この山、南西側は崖であるが、北側、東側は緩い斜面である。主要部は「岩瀬八幡神社」である。
神社の周囲に曲輪内からの高さ2m、外からの高さ4mほどの土塁があるだけである。
東西60m、南北25mの長方形で南東側に15m四方の出っ張りがあり、土塁外側には堀はなく、幅15mほどの腰曲輪があるだけである。

南側になだらかに曲輪があるだけのものであった。
堀と思える遺構はなかった。形式的には古須賀川城とされる「岩瀬山城」に良く似る。

防御性はほとんどなく、よくこの程度の城で戦闘に長時間耐えれたものである。

おそらく、ここにはちゃんとした出城なんか存在しなく、古い城を臨時に陣城として使用しただけとしか思えない。
@岩瀬八幡宮は周囲を土塁が囲む。 A北側の土塁
B西側の土塁。間に虎口がある。 C館の北東側はだらだらした山である。 D館主要部の南側にはだらだらした曲輪がある。

伏見館(須賀川市和田大仏)
峰ヶ城、須田古城とも言う。
福島空港に向かう県道63号が阿武隈川を渡る大仏大橋手前(西岸)の南側の山が城址である。
和田大仏前から南の上の台地区に抜ける市道と阿武隈川に挟まれた山である。
もっとも、この市道の切通し自体がどうも伏見館の堀切を利用しているようである。
館にはこの市道沿いから入れる。南西側から入る道があり、和田大仏方面からも入れる。
ただし、館内はかなりの藪である。
この城の北にある「和田城」の項で、この城はとても二階堂氏筆頭の重臣、須田氏の城とは思えないと書いた。
じゃあ、須田氏の居城はどこなんだということで、探した城の1つがこの館であったわけである。
重臣なのでそれなりの規模と遺構を持った城が本拠と考えるが、決定打までとは言えないが、この城じゃないのかと思われる。
東西200m、南北100mほどとそれほど大きな規模でもないのが懸念であるが、この館は、阿武隈川の断崖を背にし、立派な土塁、横堀、堀切、枡形虎口あり、一応全ての城の構成部材がコンパクトに配置され、「和田城」に比べれば遥かに高度で技巧的な感じであり、それなりの要害性もある。

若干、曖昧な部分や堀の埋没が大きいような点もあるが、伊達氏の破壊を受けた結果かもしれない。
これらの遺構からは「古城」などではなく、戦国末期の遺構と判断できそうである。
ただし、重臣としての屋敷が置けるかとなるとそのようなスペースとしては、狭いという印象は残こる。
館は西半分に東西50mほど南北25mほどの平坦なスペースがあり、ここに居館があっても不思議ではない。

西端が市道の切通しであり、やはりここが堀切跡なのであろう。
この曲輪は重臣の館としては手狭である。その東側、阿武隈川の断崖までが要害部である。
この部分はかなり複雑な構造である。西側の平坦な曲輪との間に横堀がある。
この横堀、かなり埋没している。横堀を越えると南側に枡形虎口のような空間、真ん中に井戸跡のようなくぼみがある。
さらに北側に虎口があり、北東方向に横堀が延びる。この横堀の南側に曲輪があるが、ここには横堀に面して土塁があったように思える。
その曲輪の東側に土塁があり、北側に櫓台のような1段高い場所がある。
この土塁がコの字型に覆う空間がある。内部は直径40mほど。
土塁はそのまま、「の」の字を描くように南側から東側を覆う。
この土塁の反対側は阿武隈川に面した絶壁である。
コの字型に土塁が覆うか開口部には段々に曲輪があり、和田大仏方面まで曲輪が連なっている感じである。
一方、本郭の東側から北側にかけて、帯曲輪があり、横堀に通じる。その間に和田大仏方面に下る虎口と登城路がある。

東側阿武隈川越しに見た城址。手前は水郡線線路 @西側の市道が走る切通は堀切だろう。 A本郭部と二郭間の堀
B 本郭内部。三方を土塁が覆う。 本郭東の土塁から見下ろした阿武隈川。 C 本郭北側の横堀

東館(須賀川市田中)

須賀川市の東を流れる阿武隈川東岸、県道141号沿いの田中地区にある。
館跡の地名もずばり「東館」である。
東から張出した緩やかな丘の末端部が阿武隈川の低地に面する場所にある。
比高は15m程度。館跡の東を県道141号が通る。館跡は集落になっており、遺構は見られない。
一辺150mの三角形をした地域が東館の集落であり、館はこの集落に相当しているものと思われる。
館主は田中氏と言われる。須賀川城攻防戦の時に須賀川城に籠城した武将に田中兵庫(藤)の名が見られここの館主であった可能性がある。
なお、田中付近は須田氏の所領と考えられていて、南にある八幡館も須田左近大夫が館主とされているので、田中兵庫も須田一族の可能性が高いという。
(戦国大名二階堂氏の興亡史の記載を引用)

日照田館(須賀川市日照田)

福島空港に向かう県道63号が阿武隈川を渡ると丘陵地帯の中を貫通する。
その丘の東側が日照田(ひでりだ)館である。かなり広い領域を持っている館である。
しかし、その館跡とされる場所に行ってみると、ただの山である。
土塁や虎口のような場所もあるのだが、遺構であるか確信が持てない。
須賀川城攻防戦の時、須賀川城に籠城した武将に日照田大学(藤)の名が見える。
吉田氏系図に吉田修理亮勝重の五男主膳則雅が日照田館を拝領して移り、これが日照田大学の親に当たるとのことである。
また佐藤氏系図によれば佐藤但馬勝義の三男是道が日照田大学の養子となったとある。
日照田は須田氏の所領であったと考えられているので、吉田氏は須田氏の家臣あるいは姻族であったのかもしれないという。
(戦国大名二階堂氏の興亡史の記載を引用)
館内部はただの山、椎茸栽培が・・ 館跡に建つ神社社殿。

上代館(須賀川市前田川)

須賀川市と玉川村の境、国道118号が阿武隈川を渡る乙女大橋の東にある山が館跡である。
この山、乙字ヶ滝のバックにあり、阿武隈川沿いは絶壁である。
阿武隈川を水堀として玉川方面からの敵の侵入を守る城である。
とは言え、館跡はただの山であり、遺構らしいものはない。
前田河(前田川)氏が館主であったという。
常松氏系図には享禄元年(1528)前田川館を佐藤但馬守に渡すとあり前田川氏は本姓佐藤氏か。
「岩瀬郡誌」にも前田川村上の台館(本館のこと)の館主は二階堂家臣佐藤氏でこの地の居住者はその後裔で今なお佐藤氏を称するとある。
なお、この佐藤氏はその系図によれば在原姓を称しているそうである。
(戦国大名二階堂氏の興亡史の記載を引用)

矢部館、浜尾館、山川館(須賀川市浜尾)
台地上に立地する須賀川の市街地の東方には、東を流れる阿武隈川の間に水田地帯がある。
その水田地帯の中にある浜尾地区には3つの館があったという。
いづれも現在ではほとんど痕跡を留めない。
低地にあり、阿武隈川の洪水で埋没した、あるいは宅地化、耕地化で破壊されたのであろう。
若干の微耕地にあり、堀跡らしい場所が確認できるだけである。
矢部館は養蚕神社付近にあったという。浜田古事考によると館主は矢部周防守その後、弟矢部伊勢守という。
その南の稲荷大明神のある場所が浜尾館、岩瀬郡誌によると古くは浜尾民部大輔氏泰の居館という。
矢部館の東300mの畑が山川館の跡という。岩瀬郡誌によると江戸期に大庄屋山川氏が居住したというので中世の城館ではなさそうである。

なお、浜尾館の館主、浜尾氏は伊豆国懐島出であり、浜の尾に居住したので浜尾氏を称したという。
宝徳3年(1451)浜尾民部大夫氏泰の時に岩瀬郡に下向し、ここに住み、浜尾氏の名を取り村名を浜尾村にしたという。(普通は地名を姓にするが、その逆である。珍しいパターンである。)
天正17年(1589)の伊達政宗の須賀川城攻撃では、浜尾右衛門大夫行泰入道善斎とその嫡男駿河守盛泰、善斎の弟豊前守宗泰は伊達氏に鞍替えし、須賀川城攻めの先陣をつとめる。
その功で天正17年11月20日伊達政宗が浜尾駿河守盛泰に発給した知行宛行状によれば、本領のうち畑田半分は安堵され、本領の替え地として新田、明石田、畑田半分が新たに与えられ、浜尾豊前守宗泰には安積郡守屋を安堵されている。
伊達氏が去ると浜尾氏も同行し、江戸時代、仙台藩で宗泰の子孫は、川嶋氏に改姓し着座の家格で黒川郡大松沢村(宮城県黒川郡大郷町大松沢)で1773石を知行したが、安永2年(1773)行信の代に安永の疑獄によって断絶する。
行泰の子孫としては中間番士で宮城郡高城村(宮城県宮城郡松島町高城)で167石余を知行する家と黒川郡大松沢村で131石余を知行する家があったという。

矢部館跡 浜尾館跡 山川館跡。この部分は堀跡か?

籾山御所館(須賀川市大字森宿字籾山)

須賀川駅の北西3.5q、東北新幹線が滑川をわたる場所の南西の山にあった。
この山、比高が30mほどのなだらかな山。山の東側が新幹線が分断しており、その東は工場の敷地。
北側、滑川に面した部分はド藪。西側から行けそうな感じだったのでチャレンジ。
どおってことないと思った山だったが、甘かった。そこにはイバラがビッシリ。
入り口を捜したが結局、見つからず撤退。文献での歴史は追えないようだ。

寺院遺跡という話も伝わる。このようななだらかな山なので、戦闘用の城館を置くのは不適当な感じもする。
土塁があるということだが?写真は西から見た館跡。手前の一段高い水田が居館跡のように見えるが・・。

搦手館(須賀川市大字北町)

公立岩瀬病院の地が館跡。北が釈迦堂川の崖面であり、この方面を守る須賀川城の出城であったらしい。
釈迦堂川を挟んで北の対岸に伊達氏が須賀川城を攻撃した時の本陣、岩瀬森館が見える。
土塁が残るというが・・。
あんのかいなあ?


岩瀬森館(須賀川市中宿)
須賀川駅を降りると東にこんもりした森が見える。ここが岩瀬森館である。
駅からは200mくらいの距離か。
平地に中にある山であり、そこが森になっているので目立つ。
山の高さは10mほど、直径は80mくらいだろうか。古墳のように見えるが、どうなのか?
周囲は住宅街になっているが、西側から北側にかけて水堀があったらしい。
山の頂上には鎌足神社が建つ。名前の通り「藤原鎌足」に起因する神社である。
二階堂氏は藤原氏の流れを汲む家であり、この地で最初に構えた館を清水城であったと言うが、その城がここであったとも言う。
天正17年の伊達政宗による須賀川城攻めで本陣にした場所がここであったという。

鎌足神社の鳥居。 北から見た館跡。手前は堀跡? 山頂上部に建つ神社社殿

山寺城 (須賀川市西川字山寺)
この城は、二階堂氏重臣、遠藤氏宗家の代々の城(居館)であり、最後の当主は遠藤雅楽頭勝重であったという。
須賀川駅の東400mの岡にある日枝神社付近が城跡という。
ここは東を通る国道4号からは20mほど高い高台になっている。
行ってみたが城館の存在を示すものはない。それよりここには国指定史跡、米山寺(べいさんじ)経塚があり、こっちの方が有名である。
明治17年に、神社本殿の改修をするため裏山にあった塚を整地した際、土中から青銅製の経簡や経文を入れた陶製の簡などが発見された。
経塚は全部で10基発見され、平安時代後期(承安元年)に造られたものという。
当時末法思想が全国に広がり、これを恐れた人々が、将来、弥勒菩薩が出現してこの世を救うときまで経文などを土中に埋納して残しておこうとする目的で築いたものという。
3号経塚は、ほぼ原形のまま保存され、平安末期における経塚の構造例として貴重なものという。
この米山寺と城の関係は分からないが、日枝神社付近が城だったようである。
しかし、堀のような感じの場所もあるが今1つ城館という感じはしない。
遠藤氏はここは山寺村が本領で、二階堂為氏に従って来た古くからの家臣で、代々家老を務めた、先祖は遠江工藤氏と推定されるという。
天正17年(1589)10月の伊達政宗による須賀川城攻撃では、当主遠藤雅楽頭勝重は須賀川城で戦ったという。
一族の遠藤壱岐守は大黒石口、八幡崎館で奮戦し、捕虜となるが、その勇戦が伊達政宗の目に留まり、家臣となり、遠藤但馬と改め、慶長5年(1600)の上杉氏による最上氏攻撃に対する支援部隊に加わり活躍し、子孫は仙台藩士となり40石余を知行したという。

城跡に建つ日枝神社。 神社背後に残るけい経塚

方八丁館(須賀川市高久田境)
須賀川市南部、鏡石町との境高久田境にある。
国道4号線から、国道118号線が分離する交差点の南東の岡先端部が館跡である。
岡の直ぐ西下には東北本線が走る。館のあった岡は南東方向から張り出しており、その先端部分が館だったという。
先端部には民家があるが、その周辺は段々状であり、曲輪の跡のようである。
最高地点に土塁か塚の残痕のようなものが残っていた。
堀があったというが、耕地整理が行われたのか分からなくなっている。
民家のある部分に遺構が残っているような感じもする。
天正17年(1589)10月の伊達政宗による須賀川城攻撃では、南ノ原口の出城であり、この館には佐竹氏からの援軍が駐屯した。
この中には川井甲斐守久忠(忠脩)、武茂左馬介重綱、茅根土佐守通正、松野上総介資通、月居大膳亮忠時等、おなじみの名前が見える。
この方面の守将は二階堂氏重臣、須田美濃守盛秀であり、矢田野伊豆守隆行、長沼源五左衛門秀光が守備し、伊達軍の攻撃を撃退した。
しかし、須賀川城本城が内応で放火されて炎上、これを見た南ノ原口で戦っていた須田盛秀は居城である和田城に撤退。
佐竹勢も常陸を目指して撤退するが、追撃を受け殿の川井久忠、茅根通正、石井新蔵人忠盈らが討ち死にしたという。

東から見た館跡。 最高箇所にある土壇。土塁跡? 土壇から東を見ると堀跡のような窪みが。